中華鍋奇譚
私の一番古い記憶は、まだ小学校に上がる前の運動会。私はお母さんの作った豪勢なお弁当がおいしすぎて踊り狂っていた。おかずはひとつひとつ丁寧に作りこまれた宝石みたいで、幼児の舌にとってもそれは感動だった。
私はそのときしげしげと、かきたまあんにくるまれた車海老をかじって、こうつぶやいたらしい。
「紫たまねぎ?」
そのとき、お母さんは私の肩を掴んで嬉しそうに尋ねた。
「みいちゃん、わかるの?他にどんな味がする?」
「う〜ん、わかんないけど…いろんな味…お魚とか、きのこ、あ!あれ!前に食べたふわふわのお芋!」
そしたらお母さんは嬉しそうに私を抱き上げて振り回しながらこう言った。
「あなた!この子よ!この子だったの!この子が完成させるわきっと!」
私は訳が分からず抱き上げられたまま振り回されていたがしっかりと車海老を手で掴んで離さなかったらしい。それどころか、あなたしっぽまでエビを食べちゃってたの。と、事あるごとに話してくれた。でも私はお母さんが嬉しさのあまりしっぽまで私の口の中に押し込んだと思ってるからね。いつか言ってやらなきゃね!
これはそんな私とお母さんの、それと人類の、中華鍋をめぐる物語なのだけれど。
・・・
私はそんなわけで人一倍食いしん坊だったから、小さい頃からお母さんと一緒に料理をした。ピリ辛に炒めた鶏肉のそぼろをレタスで包んだやつ、豆鼓の香りを引き出して30分ふかした柔らかスペアリブのブラックビーンズ蒸し、冬瓜に優しい味のスープをたっぷり含ませる豚バラ肉のスープ、お母さんの料理はどれもこれも絶品で食べるたびに幸せだったが、それにしても不思議な事が一つあった。
おいしすぎるのだ。
鶏肉のそぼろを炒めたときには油とショウガとニンニクしか入れなかった。だけどできた料理にはうっすらと牡蠣と焦がしネギの風味がして、小さく切った他の具材にもとろけてた。私がその理由を知ったのはそれから少ししてからだ。
お手伝いでお母さんの中華鍋を洗おうとしたとき、すごく怖い顔でお母さんに叱られたのを覚えてる。べそをかきながらなんで?って理由を聞くと、お母さんはこう答えた。
「中華鍋はね。育てるものなの」
「強くこすったり、洗剤で洗っちゃダメ。酸っぱいものを料理するのもダメ。ちゃんと育てたらね、このお鍋はこれまでずーっと料理してきた食材の味をいつまでも覚えてるんだよ」
そのときの私にはよくわからなかったが、お母さんは私の発達段階に合わせて歌うように何度も説明をしてくれたから、私はついにそのメカニズムを覚えてしまった。
お母さんはお手製の歌舞伎揚げをぼりぼりかじりながら教えてくれた。
「まなみ、そもそも食べものが焦げ付くのは鍋の表面の金属イオンとタンパク質が化学反応を起こすからなの。その反応を避けるにはずっとかき回すか、それか、食材と鍋の間に膜を作ればいいの。普通の鍋は毎回新しい油をひいて作るんだけど、中華鍋は違う」
私は鍋の表面にラードを塗ってじっくり温め始めた。何時間もかけてじんわり温めれば、脂肪分子が結合してポリマーとなる重合反応が起きる。だからこの中華鍋はつるつるなのだ。長い鎖となった脂肪の重合体は料理をするたびにどんどん重なっていくから、この中華鍋で食材を揺すれば滑って跳ね上がるくらいすっべすべ!そしてこの、ずっと馴染ませ続けた油に、これまで炒めてきた食材の風味が、中華鍋の記憶が宿っているらしい。
これがお母さんの、私たちの料理の秘密。
油が取れたらまた一からやり直しだから、私とお母さんはまるで小さな赤ちゃんを少しずつ育てるように大切に中華鍋を扱った。私は料理を重ねるたびにおいしくなる中華鍋が好きになったし、魔法のような料理を生み出すお母さんが眩しかった。
でも、この中華鍋に隠された秘密はそれだけではなかった。
その日は休みで部活もなかったから、私は一日中眠りに眠って寝倒した。そして深夜、お母さんがごそごそ起きて台所に立ったのに気づいた。
ベッドに横たわったまま目を閉じて音だけが聞こえた。サーッと水を出す水道、じゃぶじゃぶと何かを水洗いしてる音。キュッという音とともに水音が止まった。ガタンとまな板を取り出して、ザクザクとまな板で何か切っている。幅広の野菜…?トントンと感覚が短いリズムは細い何か、ネギかな。
そして卵をお椀に当てるカツンという音、かちゃかちゃという音は、耳に馴染んだ菜箸がボウルの底に当たる音だ。きっちり縦に10回、横に10回。そして炊飯器が開く音…
チャーハンだ。
容赦ない火力が出せるようにうちではお店で使うみたいな無骨なコンロがあったから、ぐるりとまわる噴出口から猛烈な勢いでガスがほとばしる。
そして中華鍋。
取手まで分厚い1枚の鉄を折り曲げた大きい中華鍋が取り出される。おたまが鍋に当たってカンカンと音がする。うちのお母さんのクセだ。戦いの前に太鼓を打ち鳴らす鬨の声。お母さんの中華鍋は戦いの前に雄叫びをあげるのだ。
油がはぜて、ズコズコと中華鍋が揺すられる。ご飯は踊るように宙を舞っているはずだ。
私はそこで我慢の限界に達した。
「起きてたの」
「うん、たまごチャーハン?」
「ううん、お母さん流秘密の絶品たまごチャーハンよ」
「まなみ、お皿もう一つ出して来なさい」
お母さんは静かに笑って、大皿にたまごチャーハンをうず高く盛り上げた。
私はいただきます。といってぱらりと黄金色にくるまれた米の粒を、心ゆくまで口の中にかきこんだ。
…おいしすぎる!!
私は夢中でレンゲを皿に打ち付けてチャーハンをほおばった。麦茶を飲んで一息つく頃には、洗わなくてもいいくらいキレイなお皿が残った。
そして私はあの質問をしたのだ。
「ねえお母さん、うちの中華鍋、なんか変じゃない?」
「そうお?何が?」
「なんか…お店のやつよりもおいしい。ちょっと変だよ。なんだか風味の種類が多すぎるの。炒めただけでこんなにおいしいたまごチャーハン…どうして?」
その質問がトリガーだった。
「ねえまなみ、うちの中華鍋のことをお母さんがずっと育ててるのは知ってるわよね?」
「うん」
「何年くらいだと思う?」
「え、何年って…たまに洗ってるんだと思ってた…3年?もしかして10年とか?」
「2000年よ」
「お母さん冗談は」
「2000年」
「おか」
「2の後に0を3つ並べて」
お母さんの眼は真剣だったから、私は本気のヤバイやつだと身を固くした。
「まなみ、歴史の資料集持ってらっしゃい。分厚いやつ」
「え、どうして?」
「みた方が早いわ」
おとなしく持ってきた資料集から、お母さんは中国の昔の水墨画を探し当てた。それは楊貴妃という昔の王が宮廷で髪を梳かしている絵だ。
「ほら、ここ」
「何が?」
お母さんの指した先には中華鍋を振るっているシェフがいて、その中華鍋の模様と、私達の中華鍋を見てみると、確かに似ていた。お母さんのドヤ顔がマジでヤバイ。
「お母さん、だからってそんな」
「あと、これとこれ。これも」
お母さんの教えてくれたフランス革命のときの宮廷の生活、マヤ文明で見つかった古代遺跡、アメリカに初めてできた中華街の写真、その全てに、確かに私たちの中華鍋が写っていた。
「ほとんどの文明を旅して回ってるの、この中華鍋は」
「旅ってお母さん、どうして」
「みんなで中華鍋を育てるためよ。パリのフォン・ド・ヴォー、地中海の新鮮な牡蠣、オーストラリアのイグアナに、南アメリカで採れたジャガイモペピーノモロヘイヤ、そんな一つ一つの旨味を吸って、この中華鍋は私のところへ辿り着いたのよ」
「どうして?どうしてお母さんなの?」
お母さんは自分の分の玉子チャーハンを名残惜しそうに噛み締めてからこういった。
「まなみ、あなた、今の玉子チャーハン、きちんと作れるわね?」
お母さんは、次に私にバトンを渡そうとしているのだ。私は直感でそう思ったんだけど、それは半分だけ正解だった。
・・・
あれから私もそのときのお母さんと同じ年になり、今、こうして私たちの中華鍋を眺めながらこの文章を書いている。もし、本当にお母さんがいうことが正しければ、あともう少しで「それ」が始まるはずだ。
知的生命体の集団がこっそり日本へやってくる。
ご飯を食べに。
そのときにこの星で一番おいしい玉子チャーハンをごちそうすること。それが人類に課せられた使命だなんていくらぶっ飛んだお母さんでもあんまりな話だと思った。こういう話は全部壮大な冗談で、お母さんなりに中華鍋を大切にして欲しいというメッセージだと思うほうが普通だと思う。
だけどもしかしたらという想いを捨てきれずに今の今までまんまと私も中華鍋を愛用して育ててきた。だって、
私の玉子チャーハンは尋常じゃないおいしさだったから。おいそれと人にごちそうするとあまりのおいしさに笑みが止まらなくなり記憶が消し飛び、異常な行列ができて秘密を盗もうとするシェフたちに付け回されるようになったから、最近は控えていた。
本当にシリウス座ケンタウロス星から生き物がやってくるなんてことが、あるだろうか。そのためだけに人類が今の今まで「文明を造らされていた」なんてことがあるんだろうか。人類は玉子チャーハンをご馳走するために生まれてきた!なんて。
そして、私は深夜0時にしてはまぶしすぎる光に照らされた。
今週のお題「愛用しているもの」