物語はいつも不安定

SF小説が好きすぎて

われわれがいなくても、世界はけっこうやっていきますよ

『渚にて』

 

本の内容に青春は無くても、僕の青春とこの本は、間違いなくしっかりと結びついていた。

 

当時僕は恥ずかしいほどロマンチストであった。

 

大学一年生になって初めての夏休み、遠距離恋愛になった彼女に会いに、東京から福岡まで新幹線に飛び乗って一緒にご飯を食べていたらびっくりするくらいあっさりとフラれた。

 

お互いの生活が変わって新しい出会いがあり、北九州と東京で気持ちを通い沿わせることなど不可能だったのだ…。というと遠恋の悲劇のようだがこっちにははそんなに新しい出会いがあったわけでもないので一概に状況のせいでもない。

 

なにしろ彼女とは卒業間際になんとか付き合うことにしてもらったといった様相で、ここで悲劇の主人公ぶるのも茶番である。二人が身を寄せる思い出も皆無なのだから、勝手に盛り上がるのはよくないね。

 

で、仕様が無いので厨二病の発作が起きて友達に自転車を借りて九州を縦断することにした。賢明な判断だったと思う。二千円くらいで寝袋を買えばいっちょまえのバックパッカーのように見えたし、山道で寝泊まりする自分を想像すると魂が震えた。それだけで青春な気がした。

 

そのときにバッグに突っ込んだのが一冊きりの『渚にて』であった。

 

どうしてあんな本を持っていったのか。舞台は放射能の汚染ですべての人類が数ヶ月後に死滅するのを知った世界。オーストラリアの住人たちを描いた静かな静かな作品である。ああなんて素晴らしい。悦に入るにはもってこいだ。

 

ロマンチック厨二病が末期だった大学一年の私は人気の少ない山道を選んだ。夜になると真っ暗で何もすることがなかったので丁寧に『渚にて』を読み明かした。

 

初めは街頭のある駐車場とかで寝袋に包まれた。しかし意外と変な時間に街頭が突然消えるので仕方なく目を閉じて今まで読んだ部分に思いを馳せて眠った。そんな日々がのんびりと一週間続いた。

 

物語に現れる登場人物は、例外なく自分の生活の延長上に最期の死を迎えようとしている。誰も自分の激しい感情や熱を表さない。干し草の話とか、釣りに使うルアーの話ばかりが後半までページを埋め尽くしていた。

 

そのあまりに静かな描写は、あえて抑えることで深い悲しみを表現する、そんな技術だろうと思って読んでいた。

 

しかし、そんなある日、とても奇妙な、大事件ではないが異様な経験が僕に起きる。

 

夕暮れどきのスーパーマーケットだった。プラスチックのテーブルに座って、さて次の区間へ走り出すかどうか考えていたときのこと、怪しいオッサンが突然話しかけてきた。

 

「お前、泊まるところないんか」

 

その男は、どちらかというとそっくりそのまま同じ質問で返したいくらいにはホームレス感溢れる感じで、怪しさ満点である。

 

見知らぬおっさんについていってはいけない、というほどの年でもなかったし、なにしろさびしい山奥だった。断るつもりで話していたがあれよあれよという間におっさんの家に連れて行かれることとなる。徒歩で。

 

歩いて家へ向かう道中に、

 

「お前、ホタルは好きか」

 

と、ホタルが乱れ飛ぶ川に案内してくれて、大分の山道で行きずりのおっさんと二人でホタルを見る、というロマンチックな時間を僕の人生にもたらした。

 

家に連れて行かれるとおっさんは買ってきた餃子をつまみに、得体の知れない常温の焼酎をストレートでごくごくと飲みだした。酔っ払っていくおっさんはつぶやくように自分のことを話した。

 

弟が肉屋をしていてそこの手伝いをしていること。でも今晩は飲みすぎたので明日は行かないこと。昔野球部のマネージャーをしていたこと。奥さんが入院していること。明日お見舞いに行くこと。それら全てを我々は「となりのトトロ」の解説番組をみながら常温の焼酎といっしょに飲みくだした。山奥なので網戸で十分に涼しく、虫の音がうるさかった記憶がある。

 

その後野球部の時に鍛えたマッサージの腕を見せてやると言って、おっさんは僕の足を揉み下しにかかるのだがこんな時間が人生に訪れるなんて誰が予想しただろう。訪れるのもどうかと思いますけども。

 

そう簡単にはクロスすることのない二人の人生だったと思うけれども、この時間はじわじわといろんなことを考えさせてくれた。そこから考えた「渚にて」の本当の意味をここに簡単に書いてみようと思う。

 

 

「渚にて」は人間の死から目を背けた生活を描いているのでもなければ、奇をてらってパニックの描写を避けたわけでもない。

 

 

これはおそらく、この作者から見たありのままの僕たちの生活だったのだ。

 

 

人間ひとりひとりの生活はこの作品の登場人物と同様、終わりを迎えるための1日1日が経過していく。それが半年後か50年後か、この本の作者にとって本質的な違いはない。作者から見れば僕たちも今の生活の延長で死んでいる真っ最中だ。

 

 

人間の死にドラマチックなことなどなく、最期まで干し草やルアーの話をしながら普段通りに最期を迎えるのだろう。

 

 

登場人物のひとりに、クラブに残った高級ワインをなんとか飲み干そうとする老人が出てくる。

 

「おお、そりゃ残念だな。おまえに、ポートを片付ける手伝いをしてもらおうと思っていたのに。いよいよ、最後の箱にとりかかったところだ。––まだ五十本ばかりあると思う。やっとこさ、かたがつきそうだ」

 

街に放射能が広がり誰もが長くないことを知った頃の会話である。この老人のように誰もがいろんなことをやり残して死ぬのだろう。大分のおっさんも常温の焼酎を飲みながら、そして僕も。

 

となりのトトロ、夕暮れ時のスーパーの駐車場、ひぐらしの鳴き声、コップに注がれた常温の焼酎、畳の上の冷めた餃子、そして油紙に包まれた『渚にて』が、ふとしたときにそのことを思い出させてくる。

 

僕は自分のポートを飲み干せるだろうか。

 

おっさんにお礼の手紙でも、と思って住所まで書き留めたのに結局書かずじまいでそんな紙もどこかへやってしまった。

  

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