窓
僕がこの世に生を受けた時、母はぐっすりと眠っていた。
すやすやと幸せそうに眠った母が目を覚ますことは無く、僕の泣き声と一定のリズムを刻む電子音が手術室を満たしていた。
母は幸せそうに何年も何年も眠った。
これは、僕の21年間に渡る愛のストーリーだ。
・・・
病室の窓をいっぱいに開けて部屋に新鮮な風を吸い込ませた。暖かな空気に土と草の香りが混じっている。
季節は春にたどり着いたのだ。薄いカーテンが風の形を教えてくれる。
季節が巡ると花を飾った。
6月には紫陽花を、7月には向日葵を、3月にはコスモスを飾って、母の日にはカーネーションを花瓶に差し込んだ。
病院は僕の勉強部屋で、仕事場で、遊び場だった。みんなが学校を終えて家に帰るように、僕は当然のように病室へ帰った。
母の症例はとても珍しかったため、治療のため個室に移って、父と一緒にそこで夜を過ごした。
たいてい父は母の隣で本を読んで過ごした。
ときどき気に入った箇所があると母のために声に出して読んだから、まねをして僕も時々絵本を声に出して読んでいた。だからだろうか。僕は今でもとても本が好きだ。
さて、僕は不幸で寂しい少年時代を過ごしたのだろうか?
そんな気は全然しない。
看護師さんたちは、ずっとここにいる僕を優しく、ときに厳しく叱ってくれた。絵を描いたり、テストで良い点を取ったりすると必ず部屋に飾ってくれた。
小さい時には他の子と比べていろんな疑問を抱いたり、父にぶつけて困らせたものだったけれど、
どうしてもたまらなくなると母の布団にそっと潜り込んでいっしょに寝た。そんなとき父は何も言わずに小さな灯りで書きものをしていた。
どんな声をしているんだろう。
どんな風に笑うんだろう。
何が好きなんだろう。
どうして母は父を愛するようになったんだろう。
僕の際限の無い質問に対して父の答えはいつも同じだった。
「いつか自分で確かめるんだな」
そんなとき必ず父の顔はニヤリと笑っていたから、僕は母がいつ目覚めるかばかりが気になった。いつまでも目が覚めないなんてことは思いつきもしなかった。
僕は誕生日やクリスマスの度に母の目覚めを願って失望を味わい、次の記念日まで指折り数えた。
いつの日かひょっこり目を覚ますのではないか、数えきれないほど何回もそんな夢を見たが、母はいつまでも夢から覚めなかった。
・・・
しかし時間はいろんなものをゆっくりと馴染ませ、僕にいろんなことを優しく教えてくれるものだ。
世間には離婚や死別、様々な理由で母親のいない人間がいること、いても会えないことに比べるとまだ少し恵まれていること。そして何より父の深い愛情のおかげで、僕は少しずつ自分を慣れさせていた。
母に声をかけ、床を直し、何度も繰り返してきたメディカルチェックをしてから学校へ行く。
母はこうして我が子がすくすくと育っているのに気づかないみたいで、時間が流れていることにすら無頓着だ。
僕が小さかった頃から変わらず若く美しくて、時の経過から取り残されているようにみえた。
これには先生も首を傾げたが、父は一向に意に介さず、「俺のお肌ケアのおかげだな」と誇らしげだった。
母に訪れるはずだった時間はいったいどこへ消えてしまったんだろう?
通う学校が中学校になり、高校になり、大学を選ぶ日が巡ってきて、僕は医学部を選択した。
僕は医者になって母を奈落から救い出したかったのだろうか?
たぶん、きっとそんなことはなくて、僕は純粋に病院という環境が好きになっていたのだ。
看護師さんは優しかったしお医者さんはカッコよかったのだ。
僕の大学合格を祝って何年もずっと担当を続けてくれた看護師さん、そして担当医師、それから父を交えてささやかで親密なパーティが開かれた。
あのときの温かい空気は今でも僕の中の大事な思い出としてしまってある。みんな顔をしわくちゃにして喜んでくれて、僕が神経外科になりたい、とスピーチをしたときには、看護師長さんが涙声で、力いっぱい僕を抱きしめてくれた。
そんな、奇妙だけど親密な僕の生活は、僕が大学3年生の時に父が急逝したのがきっかけに一変した。
初めての喪主を務めて身も心も忙殺されているときも、もちろん母は目を覚まさなかったから、僕は自分でも理由の分からない量の涙を止められなかった。
母は、母は、何のためにここに横たわっているのだろう?
このときのことを思うと、今でもときどき何が原因で何が結果なのかわからなくなるときがある。
僕が神経外科を志望して、父の死を事実として受け止めて、母の症例を専門的に研究を始めて、季節が移り変わって春が来て、暖かなそよ風が窓から吹き込んできて、母の名前を呼んで、ふとそちらを見ると、
母の目が開いていた。
少し眩しそうにこちらを見て、不思議そうに微笑んだ。
声が出ないその口は、
「おはよう」
の形に動いた。
それからの騒ぎは正直二度と繰り返したくない程忙しかった。
何日にも続く検査に次ぐ検査があって、結果を待つ間彼女はとても健康そうに、そして穏やかに過ごした。まるで、少し寝坊しすぎただけのようだった。
会話の許可が出され、初めて自分の母と真正面から向き合うことができて、僕に飛びついた違和感はまだ僕の頭にまだしがみついていた。
母が目を覚まして窓の外を眺めている。
この日を本当に長い間待ちわびていたような気もするのに。
何百回も何千回も何万回も頭のなかでシミュレーションしてきた光景が目の前にあるのに。
そんな練習も全て吹き飛び僕はぎこちなくベッドの傍に座った。
そして僕は自分の違和感の正体に気づいた。
若過ぎるのだ。
日光が当たらないだとか、肉体を使っていないだとか、そんな次元ではない。
母が眠りについたのは彼女が19歳のときだったそうだ。そして今、僕の前に横たわっている女性はそのくらい若く見えた。あまりにも若すぎた。
彼女には時間が訪れていない。
彼女が首を動かしてゆっくりとこちらをじっと見つめて、こう囁いた。
「こんにちわ。---さん?」
母は、いや、この目の前の女性は父のこと、僕のことを何も知らない。忘れていたというわけではない。経験していないのだ。
今でもこの頃のことを思うと胸がいっぱいになる。
僕の決断は正しかったのだろうか。
今でも僕が彼女と過ごした10日間が正しかったのか確信は持てない。
母には、彼女にはもっと他の道もあったかもしれないのに。
窓を開けたのはきっと僕だったのだ。
開け放った窓から明日が入ってくる。
今週のお題「今の仕事を選んだ理由」