宛てのない、いつかだれかの20歳へ
文字を持たないムガベナ族。
「文盲」は私たち文明人からするとどうも原始人という感覚だがそんなことはない。
私たち文明人、という呼び方は間違っていた。
ムガベナ族から僕はそれを学んだ。
・・・
「ねえ教授、結局彼らはどうやって昔のことを覚えているんですか?」
「そうだね、さっき30回くらい繰り返し話したとおりなんだけど、彼らは部族の歴史全てを記憶と会話によって引き継いでるんだ。それこそ何十世代、いやもしかすると百世代分くらいあるのかもしれない」
僕たちは道なき山をかき分けながら、文明に帰る途中だった。
「そんなのありえないですよ。私だってさっき何食べたか忘れるくらいなのに」
「僕たちは昨日からずっと携帯食しか食べてないけどね。とにかくね、うん、僕ら文字を持つ文化からは想像もできないほど彼らの記憶力はいい。もしかすると僕らは文字を持つことで、記憶は退化してるのかもしれないよ。"note"という言葉の意味は覚書、という意味でもある。そのnoteが脳の外にあるんだから、彼らから見れば僕らの記憶力なんてそれこそ」
「あっ!アケビだ!こんなアフリカの山奥にもあるんですねえ。教授も食べますか?うちの実家ではおやつみたいに食べてたんです」
「君の質問にすごい丁寧に答えていたんだけどもうそれはいいのかな。いいかい。あんまり変なものを食べないほうが良い。アケビに見えても中身はどうかわからないものだ。そもそもアケビは確か東アジア原産の果物だから、アフリカのこんな山奥に自生しているわけはなくて、もしそれがアケビに似ているんだとしたら近縁の祖先か、または遠い祖先の誰かが」
「うっ…!」
「大丈夫か!?飲み込むな!今すぐ吐き出せ!」
「ほんのり甘い!教授、これけっこういけます!一口どうですか?」
そういうのは本当にやめて欲しい。
「そういうのは本当にやめなさい。何言ってるんだよ食べないよ。ダメだよ。本当にお腹を壊しても僕は本当に知らないよ。今僕が持っているのは一般的な薬ばかりだから、腹下しくらいならいいんだけど、もし何かのアレルゲンを持ってたり中和不可能な毒素が、それこそムガベナ族にはなんともなくても日本人には分解できないたぐいの毒素だったとしたらこれはやっかいな」
「携帯食ばっかりだったので本当においしいです」
「何も聞いてくれてないみたいだけど君はとってもおいしそうに食べるね」
彼女は本当においしそうに食べた。
未知のものに対してこれだけオープンに接してくれるのは文化人類学を志す人間として欠かせない強力な武器だ。そして僕に欠けがちなものでもある。
この調査中も彼女のおかげでムガベナ族と心から通じ合えたように思う。たくさんの絆と、本当に楽しい時間を過ごせた。
「でも教授、毎日起きたことをなんでも全て覚えているわけにはいかないでしょう」
「そうだね、ムガベナ族はその覚え方、伝承の仕方が独特なんだ。一般的に文盲の民族の記憶力は驚異的だ。忘れたらもう誰も思い出せない、という意識がそうさせるんだろうね。特にムガベナ族は人の死の考え方が珍しい。彼らの言葉では忘れられる、という意味と死ぬ、という意味に同じ単語を使う。彼らにとって忘れられることは死ぬことなんだよ。そしてもう一つ、ムガベナ族の覚え方には奇妙な風習があって」
「うっ…!」
「もう本当にそういうのやめなさい。オオカミ少年だっていつか信用されなくなっちゃうよ」
そのときだった。
彼女は持っていた果物を落として全く受け身を取らないままゆっくりと前のめりに傾きだした。
僕の目に映る光景がスローモーションになる。
ああ、これが火事場の馬鹿力というやつなのかな、と冷静に考える時間すらあった。僕の脳はこのとき通常の力を超えて情報を処理していた。
体の動きは遅くても、ゆっくりと液体のりの中をかき分けるように倒れそうな位置へ泳ぐ。
彼女の無事を心から祈りながら。
抱きかかえた彼女の体はさっきまであんなに元気だったのがウソのように熱かった。
今の木の実だ。どうしてもっと真剣に止めなかったのか、心の底から自分を恥じた。しかし過ぎ去った過去を嘆いてもいいことなんてない。今に目を向けなければ。
ここから中継のキャンプ地までまだ数十キロある。倒れた彼女の体を抱えてたどり着くのは無謀だ。ではムガベナ族の集落へ行くか?ここからならまだものの1時間で戻れるだろう。
しかし、症状からして何らかの抗体反応である可能性がある。その場合にムガベナ族に治療手段などあるのだろうか。一方でこの場所では救う手立てなどないのもまた事実だ。
決めなければ。
僕は力の入らない彼女の体をおぶって来た道を戻り始めた。
・・・
ムガベナ族は僕の姿を見つけるとすぐに駆け寄ってきてくれた。言葉がわかる若者を見つけて状況を説明する。
柔らかい寝床と火を借りて彼女の体を暖めながら、僕は持っていた薬を飲ませる。
しかし果たして、彼女の様子は辛そうなままだった。
「教授…」
彼女がうわ言のように喋り出した。
「教授…ごめんなさい…」
「謝るのは僕の方だから。喋らないで休むんだ」
謝るのは僕の方だ。君をここで死なせはしない。
やはり近代設備のあるキャンプ地まで戻るべきだったのか、いや、きっとこの反応は彼女の個人的なものだ。専門医の処置でもないと…。
そうか、もしかすると…。
彼女の口にしたアケビのような果実を見せるとムガベナ族の若者はどこかへ飛んでいった。
しばらくして若者が連れてきたのはこの部族の長老であり語り部。伝承のマスターデータを司る老婆だった。
長老の知らないことはないと若者は付け加える。
僕は老婆のしゃべることを全て教えてくれと若者に頼んだ。
若者がうなずく。
ムガベナ族の伝承は独特だ。
ムガベナ族の人間は誰でも20歳になったら長老のところへやってきて、そのときの自分の話をする。どんなことを考えているか。村や家族にどんなことがあったのか。そのときの気持ちを長老に伝える。
それは20歳まで生きられたことのお祝いでもあった。ムガベナ族は20歳まで生き延びた人を祝福するためにその人間のストーリーを記録する。文字を使わず、一言一句そのままに、全てを記録する。
老婆の脳が少しずつ記憶を吹き出し始める。
「…ツガンポの幼い息子が倒れた時、当たりには一面蜂の死体が落ちていた。ツガンポは息子をひとりきりにしたことを心の底から後悔した…」
「…雨が降らなかった。イモは茎まで食べ尽くしていた。食べられそうな木の実も全て試した…」
「…月に影が落ちた。月は一度全てその身を隠すとまた、反対側から輝きだした。ルルの婚礼のお祝いだった…」
いったいどのくらいの年月を遡っているのだろう。もし最後の話が皆既月食だとしたら、この地域で見られる皆既月食は優に200年前だ。
「まだほんの序の口です。10倍しても足りません」
それが事実だとすればムガベナ族の歴史は数千年を超える。千年の物語を蓄える部族。
「…流行り病で村の人々がタトスを除いてみな死んでしまった。タトスが途方に暮れて歩いていたとき、橋で会ったのがサルーだった。彼らはかろうじて我々を取り戻した…」
「…リリーは草の薬で眠った。眠っている間は痛みを感じなかった。そこでトゥラサはリリーの頭から腫れ物を切って取り除いた」
本当だろうか。これは麻酔を使った外科手術の記録に聞こえる。数千年前に頭蓋骨の外科手術?
「…サティルは電気を手に入れようとした。もう一度あのときのちからを取り戻すために機械を動かしたかった。しかし食糧を手に入れるために毎日働いた…」
「電気?機械?ちょっと待ってくれ、これはいったい何年前の話をしているんだ?」
「1万〜2万年前のことです」
「ありえない。その時代に存在しているテクノロジーじゃない」
「私たちはただ伝承されたものを語り継いでいます」
老婆はとめどなく続ける。
「…ロクサがこの星に降り立った時、彼は生きていることに感謝した。彼はここに住むことに決めた。彼の船はもう動かなかった…」
「…マスィが倒れたときにロクサは手をつくして彼女を救おうとした。彼女の食べた実は他の人間には何もなかった。彼女の体だけが持つ反応だった。ロクサは手をつくし反応を弱める薬を調合した」
「これじゃないか?彼女の症状に近いんじゃないか?」
「静かに。今治し方をしゃべります」
「ロクサは持っていた薬をマスィに飲ませた。マスィは無事力を取り戻した。ロクサはこの薬が無くなってしまってはいけないと思い、彼の子どものために残そうとした。彼はスジの無い草を選び、草の子孫がいつまでもこの薬を生み出し続けるように草の設計図に組み込んだ。草の花は日の出のときの太陽の色であった」
「まさかそんな。設計図?薬を製造するDNAなのか?それを草に埋め込むなんて…」
老婆が若者に指示をしてその草を持ってこさせた。眼を見張るような、焼けるようなオレンジ色のその花は、村の一角にほそぼそと育っていた。
私はその葉っぱをすりつぶしそっと口の中に流し込んだ。彼女は少し、楽になったように見えた。呼吸が穏やかに整い始める。
夜が更けても眠れなかった。ムガベナ族のこと、ムガベナ族の歴史のこと。そして目の前に横たわる彼女のことが頭にしがみついていた。
彼女が目覚めたら何と声をかければいいだろう。あれこれ考えている内に、教授はある事実に思い当たった。
そうだった。
それはきっと、特に今は、大事な言葉だと思う。
夜明けが近づいて鳥の鳴き声の大合唱が始まる頃、彼女が目を覚ました。
僕は嬉しくてホッとして、つい笑ってしまった。彼女をじっと見つめて、そして小さな声でこう言った。
「誕生日おめでとう」
彼女は横たわったまま目を細めて、こんなふうに囁いた。
「ありがとう。教授。私、20歳になりました」
僕は彼女のことをいつまでも覚えていようと心に決めた。
今週のお題「20歳」