全て見たい現実
隣りで眠気と戦っていた皆川先輩は早々に敗北を認めて夢の世界へと旅立ってしまった。
噂には聞いていたが「量子物理学実論II」の破壊力は本物だ。
受講した学生全てを夢の国へ誘うその講義。
一部の生徒に「レクイエム」と名付けられた異名は伊達じゃない。
でもこの教室に集まった多くの生徒は「単位欲しいから出席だけしてくるわー」的なパーリピーポー崩れとはわけが違う。
物理学の神秘に敬意を払い、その世界に身を置きたいと願う学生たちばかりなのだ。
彼らは真面目で知的好奇心に燃え、講義のためにきちんと8時間半の睡眠をとり昼食を軽めに抑え、コーヒーをでかいポットに詰めてガブガブ流し込んでブラックブラックミントガムを3,4個口に放り込みながら、
居眠りしていた。
そんな講義があってたまるものか!と思ってその授業をとったのだが、
その威力はびっくりするくらい本物だった。
—肌寒いこの季節に一度部屋に入れば足元から暖かで、ポットが湯気をあげて適度な湿り気が保たれている。
木の椅子は絶妙な角度で体を机に押し付けてくるから理想的な居眠りの姿勢に固定される。
スクリーンを使うため部屋はかなり暗い。
たくさんの学生に紛れて暖かな薄闇に溶け込む感覚に陥る。
そして始まるその講義。
教授の落ち着きのあるバリトンは、まるでゆりかごの中で聞いた子守唄。
700年の恨みも水に流してすやすやと眠れそうな心地よいミュージック。
日本語なのに日本語ではない、低音で響く重低音で一人、また一人とこうべを垂れて静かに意識を飛ばしていった。
そして僕もまたその餌食になろうとしている。
皆川先輩は「ねえ、今日あたしね、本気でガチだから」といって氷の袋とホッカイロを交互に頭にくっつけるという方法にチャレンジしたが、いかんせん発想がよくなかった。
温冷浴の効果で副交感神経がいい感じになってしまった皆川先輩は開始75秒で落ちていった。無念。皆川さん。その心意気と寝顔は買いたいと思います。
が、
…そんな僕も限界だ。
眠くなったら自分で顔を叩くというシンプルな手段で臨むも、さっきから5秒に1回の頻度で講堂中に高いビンタ音が鳴り響く。
教授は全く意に介さない。まるで、想定内とでも言わんばかりだ。
なんなんだこの講義は。
いったいなんなんだこの講義は。
脳がゆさぶられて床が柔らかくなって吸い込まれそうだ。こんなことってあるだろうか。
薬品か。
薬品に違いない。
催眠剤を霧状にして撒き散らしているんじゃないか。
そうでもないとこの眠気は説明がつかない。
「で、あるからして」
パアァーン!
ビンタで自分のあごをゆらして考える。もしかして…。
「素粒子の半物質的スピン挙動を」
パアァーン!
きっとこの授業にはとてつもない秘密が隠されているのでは。
スッパアァーン!
僕にはわかる。教授は仕方なく講義しているが本当はこの秘密を教えたくないのだ。
だからこうして学生を落としにかかっているのだ。
負けて、たまるか。
教授の秘密を…
負け…
・・・
気づいたら授業が終わっていた。僕のノートにはいつも通りミミズがうねっていた。
僕の負けだ。
「今日もダメだった…」
僕が唇を噛んだそのとき、机に突っ伏していた皆川さんがもぞもぞうごめきだした。夢の世界から帰ってくるところみたいだ。
たっぷり118分は睡眠をとったはずである。
ノートのはしっこが当たっていたのだろう。四角い跡がおでこに赤くなってる皆川さんが、こちらへ向かって微笑んだ。
「いいえ、私たちの、勝ちよ」
皆川さんが固く握り締めていた拳を開くとそこには、
ボイスレコーダーが、
「録音終了」
を告げる表示を点滅させていたのである。
・・・
僕らは講堂に残ってその講義をもう一度聞くことにした。外は今にも雨が降りそうで、時計は17:17を指していたと思う。
日が落ちるのが早い。
僕らはひとつのイヤフォンを分け合って録音を聞いた(めっちゃいい匂いした)
"…発散した重ね合わせの状態を収斂するのが観測、さらに言えば視線、すなわち私たちの判断でしかないことから素粒子の挙動制御に人の意思が…"
「なるほどそうか…!」
ぬるくなった水をおでこに押し当てながら皆川さんがいう。あざを取ろうとしているらしい。
「ねえ、--くん、もしかして…」
皆川さんは帰り支度を始めた。
「すぐに出ましょう」
僕はわけも聞けないまま講堂を出た。並んで大学から外へ歩く。
「何がわかったんですか?」
「シュレディンガーの猫よ」
「シュレディンガーの猫?」
「そう、シュレディンガーさんが考えたあのお話。中身はわかるよね?」
もちろんだ。量子力学に触れる生徒が初めに教わる超有名な思考実験。確か猫が…
「猫が毒ガスのビンといっしょに閉じ込められてて、ガスがビンから漏れるかどうかは小さな小さな素粒子次第ってやつのこと」
皆川先輩はそういう話が大好きで詳しい。
「ええと、確か、ものすごく小さい粒の動きだけで猫が死ぬかどうか決まるっていう実験ですよね。箱を開けるまで中が見えなくなっていて…」
箱に猫を閉じ込めて、もし素粒子が崩壊したら毒ガスが出てくるというもの。素粒子が崩壊したかどうか、外からはわからないようになっている。
「そう、そして素粒子の動きは、誰かが蓋を開けるまでわからないってやつ。でもね、違うの。それはね、単に見えないってだけじゃない」
皆川さんは前を向いて歩きながらその後を続ける。
「外から見るまで、本当にね、猫は生きても死んでもいないの」
もう日が暮れた。人通りの少ない道を僕らは歩いた。
「それは誰かに見られるまで本当に決まってないのよ」
どういうことだろう?
「どういうことかっていうとね、このバッグの中だったら私たちが見ていなくても中に何がどんな場所に収まってるか決まってるじゃない。だけど、素粒子って誰かに見られるまで崩壊するかどうかさえ決めてないの。だから、見られる瞬間まで猫は死んでもいるし生きてもいる。決まってないからその瞬間、猫が生きてる世界と死んでる世界二つが本当に存在するわけ」
「二つの世界…」
「想像してみて。箱を開けた瞬間にね、猫がニャア!って元気に飛び出してる未来と、かわいそうに。毒ガスを吸って死んでる未来。どちらも箱の中に"同時に"詰まってるの」
「それだけじゃないわ。その猫がもし生きてたら産んでた子猫がいるじゃない。その子猫が生きてたら産んでた孫猫も。そんな猫をかわいがって幸せそうな家族とかもね。そんな未来も一緒に詰まってるから、もし猫が死んでたら子猫は生まれないし家族は悲しむし、そんな未来も一緒に詰まってるのに」
「フタを開けるまで決まってないんだよ」
見られるまで生きているか死んでいるかどちらにしようか悩んでいる猫。なんだか嘘みたいな話だ。
「それで、教授の授業は何を言っていたんですか?」
「教授が講義で話していたのは、その粒子の動きを決めるのは、見た人の意思である、って言ってたの」
「観測者の意思…?」
「その箱を開けた瞬間に、こうなってるに違いないって信じ込んでる人の思う通りに素粒子は動くんだって。素粒子は期待に応えちゃうんだって」
「そんなことあり得るんですか?」
「見る人の信じる気持ち次第だって言ってた。見つめる人が、どれだけ強く信じ込んでいるか。それが現実を決めるの」
皆川さんは急に上を向いたかと思うと目を細めてこうつぶやいた。
「ねえ、見て。この雨雲、今にも雨が降りそうじゃない?」
その言葉が終わる頃、顔に冷たい感触が当たる。
雨だ。
「そんなまさか。偶然ですよね?」
「行こう!すぐに土砂降りになっちゃう!だってあたし、そう思いながら見ちゃったし!」
皆川さんは走って雨宿りできそうなテラスに走り込んだ。彼女のいう通り凄まじい雨が道路を叩き始めた。
「まさか、今の全部先輩がやったって言うんですか?」
「多分だけど、私は教授のあまりにも完璧な講義を聞いて、信じる気持ちが強くなっちゃったのかもしれない。そのくらい説得力のある講義だった」
「ねえ、わかる?この世界で物が下に落ちるのはさ、みんながそりゃそうだろ、って思いながら物を見てるからなんだよ」
そんな馬鹿な。彼女の思い通りに素粒子が運動する。それはつまり…
「ねえ見て?あの店員、なんだかうっかりこのドアを開けてきそう」
その瞬間、突然開いたドアから若いお姉さんが飛び出してきて僕に何か液体をひっかけた。
「も、申し訳ございません。服は大丈夫でしたか?」
赤ワインが上着に少し飛んでしまっていた。
「すみません…。すぐに処置を致しますので、一度中にお入り頂けますでしょうか」
僕たちは中に入ると、そこはバターとワインの香りが立ち込めていた。
「店長とお話をしてきました。この上着が乾くまでこちらでお食事をして頂ければと思うのですが、いかがでしょうか…お代はけっこうですので…」
まさか…皆川先輩…!
皆川さんは自分でも驚いた顔でこちらを見つめていたが、やがてとびっきりの笑顔でまっすぐにこちらを見据えた。
「あたしがあなたとご飯を食べたかったからかもしれない」
その視線で僕の心の素粒子も突き動かされてしまったのだろうか?
この奇妙な力を身につけた彼女に、これからいったい何が起きるんだろう。
見た人の願いが、想いの強さが現実を染め上げる世界。
そんなシンプルな世界に住む僕ら。
全てが思い通りになる彼女の視線。
でも、一つだけこれは言おうかどうか迷ったのだが、僕も、実は録音された講義を聞いて理解してしまっていた。
だから、
彼女が上を向いた時に僕もまた雨を願ったのだ。
僕もまた、彼女とご飯を食べたかったから。
僕と彼女の、奇妙な観測世界が始まった。
今週のお題「今年見に行ってよかったもの」