物語はいつも不安定

SF小説が好きすぎて

夏野菜カレーセットください

僕は忘れていた。



皆川5段はその自由な指し筋でここまで上り詰めた、天才女流棋士だったことを。

 

 

 

前兆はあった。

 

タイトル戦ともなると対局中の食事も超一流である。前日までに食べたいものをリクエストすれば、ブラックサンダーから北京ダックまで準備してくれる。

 

しかし僕は気づいていなかった。戦略ばかりに気を取られ、まさか食事が戦場になると思っていなかったのだ。自分が恥ずかしい。

 

 

シェフに提出するご飯お申し込みシートは控室に置いて来てしまったし、そのシートは皆川5段の手中に落ちていた。それがわかったのは僕に昼食が運ばれてきたときだった。

 

 

なぜか浴衣姿に包まれた皆川5段が現れた時、勝負はすでに決していたのかもしれない。

 

 

・・・ 

17手目。

 

 

皆川さんはぷりぷりと氷で冷やされたスズキの洗いを醤油塩で、僕はたった一個渡された歌舞伎揚げをかじっていた。なんだこの差は。

 

 

 

 

僕には少しだけ焦りがあった。

 

 

皆川さんは初手から猛烈な勢いで自分の玉を囲み、こちらに一歩も攻めてこないまま内側で金をくるくると回している。

 

 

まずい。

 

このまま持久戦に持ち込まれると食事の差は重いボディーブローのように効いてくる。くそっ、それで集中力が切れるのを待つ作戦だったか。

 

 

そう考えた僕は本当に浅はかだったと思う。

 

 

・・・

48手目。 

 

 

僕が歌舞伎揚げを大切に半分ほどかじり終えたとき、皆川5段へ二品目が運ばれてきた。

 

 

そういうことか。 

 

 

おいしそうな七輪が現れ、板前さんが茄子を炙り始めたのだ。

 

 

炙られた焼き茄子の皮を、熱いまま指の先でむいて、おろし生姜とミョウガ味噌が添えられた。冷たそうな出汁がかけられる。焼き茄子の煮浸しか。出汁をかけた瞬間のじゅっ、という音が耳にこびりつく。

 

 なるほど読めた。


皆川さんは単に飢えさせるのではなく、僕を羨ましがらせて集中力を乱そうという作戦だったのだ!

 

 

そう思った僕は本当に浅はかだったと思う。

 

 

・・・

107手目。

 

 

僕が歌舞伎揚げを運んできたお皿に付いた粉をなめているそのとき、串打ちされた鰻がしずしずと運ばれてきた。

 

 

二尾。

 

 

既にふっくらと蒸し上げられている。まさかと思ったときにはもう遅い。

 

 

鰻はじうじうと音を立て、したたる脂は炭火で弾け、凶暴な匂いを撒き散らしたのである。仲居さんがうちわでこちらに仰いでくる。

 

 

年季の入った風の職人がきっちり3回、蒲焼をタレの入ったツボに浸す。しょうゆとみりんを同量混ぜたタレだ。長年使った蒲焼のタレは、これまでにつけたうなぎの脂とうまみを吸うという。つやつやの鰻は炊きたての飯の上によそわれたが、なんということだろう!うなぎが大きすぎて重なっているのだ。

 

 

ご飯にタレが染み込む間時間をおいて、彼女は箸先でうなぎを二重にきれいに切り取った。一口でごっそりいったった。 小さくため息。

 

 

 

ダメだ。ここで心を乱されては彼女の思う壺だ。これまでに彼女を倒すためにしてきた努力を思い出せ。

 

数年間分の棋譜を何度も並べた。皆川5段の対局中の映像も見た。勝ったり負けたりしたときの表情も一応スクリーンショットに撮った。それをプリントアウトしようとしたところで我に返った。将棋関係ないやないか。

 

 

しかしどうして二尾あるんだ。そんなに彼女は鰻が好きなのか。まさか…

 

 

僕の分ではないか?

 

 

 

そんな。そんな優しい打ち筋が未だかつてあっただろうか!僕はこの5時間で歌舞伎揚げ1個しか食べていなかったのだ!

 

 

 

「皆川5だ」

「違います」

 

 

「まだ何も」

「無理」

 

 

 

ひどい、あんまりだ。「ひどい、あんまりだ」と言おうとしたとき、皆川さんの指がそっと盤上を示していることに気づく。

 

 

 

僕の香車と交換だった。

 

 

 

ひどい。そんなのあんまりだ。炙りたての鰻がご飯の上でタレに染み込んでいるのに香車と交換だなんて。

 

そんな横暴を許すわけにはいかない。この人は将棋をなんだと思っているんだ。 

 

 

 

 

・・・ 

 

 

 

鰻の身はほくほくと崩れた。

 

 

 

また後で取り返せばいいのだ。濃厚なタレとうなぎの脂が米粒をくるんでいる。香車一枚で安いものだ。

 

 

しかし、一尾丸々くれるかと思っていたのに八分の一程度にカットされた時は思わず抗議の声が出た。ひどい、あんまりだ!

 

が、手書きの交換表を渡されて声を失った。一尾丸々ほしい場合は追加で銀を渡さねばならないらしい。ひどい、あんまりだ。

 

 

もうここまでにしよう。ちょっとおいしい鰻がなんだ。僕には歌舞伎揚げ(の粉)がある。

 

 

もう交換しない。僕は将棋で勝つ。

 

 

 

・・・ 

265手目。

 

 

あれから6時間。鯛の冷やしそうめん、とうもろこしのかき揚げ、十勝豚の冷しゃぶを銀と金1枚ずつ、それと飛車と桂馬二枚で交換してもらうことができた。優しい。

 

 

 

かき揚げには春菊も入っていたし、鯛のすり身を練りこんだそうめんも、食感は軽くいくらでもたぐることができそうだ。濃いめのたまり醤油に濃厚な出汁。ほんの一口だったけど、海の香りを感じた。

 

冷しゃぶは、一度塊肉のまま炙ったものを薄くそぎ切りにしていた。こんな冷しゃぶがあるのか。ローストビーフのように透明な肉汁が溢れるかたまりから、目の前で切り出される。


水菜を巻いて胡麻味噌でいただくんだそう。この味わい。赤身と脂肪が交互に重なった層がしゃぶしゃぶには最適だ。

 

たった銀一枚でポン酢ももらえるシステムが素晴らしい。これでもう少し量があったら最高だ。

 

 

さ、役駒はほとんど失ったが試合はここからだ!集中!

 

 

と、そのとき皆川さんは何やら合図を出し、シェフが薄切りの牛肉、アボカド、ズッキーニ、パプリカ、トマト、そして玉ねぎを刻み始めた。

 

 

 

そんな…

 

 

これはもしかして…


夏野菜カレー…

 

 

 

渡された表にはこう書いてあった。

 

 

・夏野菜カレー(小盛):角、金、桂馬か香車1枚ずつ

・デラックス夏野菜カレーセット(ビール、食後の練乳あずきかき氷付、おかわり自由☆):玉一枚

 

まだ若い子羊の肉を使ったカレーだそうで、ラムの丸焼きが庭に用意された。 

 

 

いつの間にか冷房は止められ、皆川5段は大きなたらいの氷の柱からそよ風を受けている。窓は開け放たれていた。セミの声と風鈴の音が耳に心地よい。今日も暑いなあ。

 

 

 

そうだ、この試合が終わったらプールに行こう。そういえば皆川さんの横に置かれている透明なパックには水着とバスタオルが入っていた。

 

 

皆川5段は僕の視線に気がついて、まぶしい笑顔をこちらによこした。

 

 

「食べ過ぎちゃった」

今週のお題「夏の食事」

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